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はじめに
今まさに大変身を遂げようとしているひぐらしのさと(とその周辺)。数年後には日暮里駅を中心として高層ビルが立ち並び、モノレールが行き交い、多くの人々が買い物に、仕事に、そして海外へ旅立つための基点として、このひぐらしのさとを賑わわせていることでしょう。
そんなひぐらしのさとの移り行く様子を世界中の人たちに紹介する、これが当サイトの大きな目的の一つです。
そこで、このコーナーでは毎回一つのテーマを掲げて、そのテーマに沿ってひぐらしのさとの歴史をひも解く作業に挑戦してみたいと思います。
今回のテーマは、「ひぐらしのさとのルーツを探る」です。
「ひぐらしのさと」って、正確にはどこ?
さて「ひぐらしのさと」という言葉はよく耳にします。まあ、大体どの辺の地域を指しているのか、ということについては、あまり細かいことを気にしなければ、皆さん、さして大きな違いはないでしょう。大まかにいえば、日暮里駅・西日暮里周辺地域といった認識がほとんどではないでしょうか。
しかし、歴史的には「ひぐらしのさと」はより特定された地域を指称しています。ではその地域とはどこなのでしょうか?その呼称に至った経緯などにも触れながらご紹介したいと思います。
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| 日暮里・西日暮里駅周辺地図(荒川ふるさと文化館) |
その昔は「新堀村」
そもそもこのJR日暮里・西日暮里周辺は、その昔は「新堀」という地名でした。「その昔」とはいつ?ということになりますが、この点についてはちょっとはっきりしませんが、室町時代(文安5年・1448年)の豊島郡の年貢目録に「につほり妙円」という檀那の名前が登場することから、このころにはすでにその名があったのでは、と考えられます(但し、平仮名表記です)。
また、この時代、この地域は小田原の北条氏の家臣・遠山弥九郎の所領となっていましたが、その北条氏の「所領役帳」(家臣の諸役賦課の状態を調査し、集成したもの。1559年作成)には、遠山弥九郎の諸領として「四拾五貫文 江戸新堀」と記されています。したがって、今から約450年前にはこの地域は「新堀」という村名になっていたと考えられます。
花咲き薫る江戸の名所
こうして「新堀」という名は室町期に登場するのですが、これが明治11年まで続きます。その間、この地域の特に諏訪の台を中心とした丘陵地(JR日暮里駅と西日暮里駅を結ぶ線路の西側)およびその西側斜面はある時期を境に江戸の庶民にこよなく愛される名所へと変貌していくのです。
江戸の初期から中期にかけ、この地域に寺院が数多く移転してきて、寺町を形成しました。そしてそのなかの妙隆寺(のちに修性院と合併)の住職が境内に桜やツツジを植えて、庭園を作ったところ、花見客で大賑わいとなりました。これをきっかけに周囲の寺院もこぞって桜を植え、庭園を造りました。それがまた見事なほどの景観をつくりだし、江戸の名所として多くの本や浮世絵で紹介されるようになったのです。
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東京名所四十八景「日くらしの里」 (荒川ふるさと文化館蔵) |
江戸名所四十八景「日くらしの里」 (荒川ふるさと文化館蔵) |
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東都名所「日暮里」 (荒川ふるさと文化館蔵) |
「江戸名所花暦」という本があります。これは「花」を中心として江戸の名所を紹介した江戸時代のガイドブックのようなもので文政11年(1827年)に刊行されたものです。この本の「巻之一」の「彼岸桜」に次のような記述があります。
「谷中日暮(ひぐらし)の里は江戸鹿子、江戸惣鹿子、紫一本とふに、谷中新堀と見えたり。(中略)此地彼岸桜より咲そめて、弥生のすえまで花あり。・・・いま日くらしの里と唱への定まりしは、修性院の庭中なる碑を見て知るへし。
たれとなく 咲そふ花のかけに来て けに日暮の里そ賑わふ 従一位資枝」
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江戸名勝図絵「日暮里」 (荒川ふるさと文化館蔵) |
江戸名勝図絵「道灌山」 (荒川ふるさと文化館蔵) |
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| 修正院 |
「ひぐらしのさと」の誕生
上述の「紫一本」(むらさきのひともと)(1682年刊)。これは江戸時代の地誌ですが、このなかに「新堀を道灌山より臨めば、春秋の景色、日の暮るをも忘るる心にて日暮の里云いならわせり」という記述があります。江戸中期以降、花の名所となったこの地域は、道灌山から眺めるその景観が実に見事だったのでしょう。この一文は「道灌山から新堀を見渡す眺望が、あまりにも美しいため、日が暮れるのも忘れてしまう、そしてそれが日暮の里の呼称のもととなった」というようなことでしょう。この景観の美しさは当時の浮世絵にも多く描かれています。
こうして、「ひぐらしのさと」は江戸期新堀村の丘陵地およびその西側地域の美しさを表現する呼称として言い習わされるようになったのです。
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名所江戸百景「日暮里寺院の林泉」 (復刻版・荒川ふるさと文化館蔵) |
名所江戸百景「日暮里諏訪の台」 (復刻版・荒川ふるさと文化館蔵) |
「ひぐらしのさと」とは西日暮里三丁目
「紫一本」には「谷中の西北を新堀という」という記述があります。また江戸の人々は道灌山から見渡した新堀村を日暮の里と呼びました。さらに安政3年(1856年)に発行された切絵図「根岸・谷中・日暮里・豊島辺図」には新堀村の丘陵地(JR山手線線路の西側・西日暮里3丁目)を指して「此辺日暮ト云フ」とあり、丘陵地の東側低地(JR山手線線路の東側・西日暮里2・5丁目)を「下日暮里ト云フ」とあります。
これらの点を総合すると「ひぐらしのさと」とは現在の荒川区西日暮里三丁目を指していると考えられます。
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根岸・谷中・日暮里・豊島辺図 (荒川ふるさと文化館蔵) |
なお、新堀村は明治11年に「日暮里」(にっぽり)という名称に変わりました。ただ、その理由が、江戸川区に同じ「新堀」という地名があって紛らわしいから、という理由だそうです。ということは、仮に江戸川区に新堀がなかったら、今もってこの地は「新堀」だったかもしれません。
(参考資料)
○ひぐらしのさと─江戸の名所と文人たち─(荒川ふるさと文化館) ○匠のまち あらかわ職人マップ(荒川ふるさと文化館) ○荒川ふるさと文化館 常設展示図録(荒川ふるさと文化館) ○ホームページ「平塚の歴史と文化財」 ○豊島区ホームページ ○ホームページ「荒川ゆうネット・歴史探訪」 ○江戸名所花暦(八坂書房) ○東京二十三区百名山 ○角川日本地名大辞典(角川学芸出版)
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